画面の隅に、細身の女性の姿がぼんやりと一瞬だけ映り込み、わずか数秒後には消えてしまった。同時に、女性の方へと駆け寄る二人の小さな子供の足音も聞こえてきた。「ママ!」「ママ、お帰り。今日もお疲れさま」二人の小さな子供はとても気を利かせてるように見え、あれこれと女性に優しく声をかけている。マイクから少し離れているせいで、女性のか細い声がはっきりとは聞こえない。しばらくして、二人の子供が画面の前に戻ってきた。「ママが帰ってきましたので、今日はここまでにします」陽平は画面に向かってそう説明した。妹も横で画面に向かってハートマークを作っていた。「またね~」視聴者たちは少し残念な気持ちだった。子供たちは一週間に一度か二度しか配信をしない上に、今日はほんの少しの時間で終了してしまったのだ。惜しい気持ちはありながらも、二人にさよならを告げた。画面が暗くなり、配信終了の表示が現れると、瑛介はまだスマホをぼんやりと見ていた。再び健司の声が聞こえた。「社長、いま出発しないと、間に合わないかもしれませんが」瑛介は次の瞬間、無言で立ち上がり外へと歩き出した。外には健司と、最近入社した新人が立っていた。会社の業務が多いため、もう一人雇ったのだ。二人は瑛介が出てくるとすぐに挨拶した。「社長」「お疲れ様です」瑛介は冷淡にうなずき、無表情でそのまま通り過ぎた。二人は急いで後に続いた。瑛介の歩幅は大きく、二人は少し後ろを急足で歩いていた。入社したばかりの新人は、若い女性で、健司のもとで働いている。少し後ろの位置に下がったことを確認すると、瑛介のことを尋ね始めた。「高山さん、さっきもまた社長はあの双子ちゃんの配信を見ていたんですか?」健司はうなずき、声を潜めて言った。「そうだ、ドアの外にいたときに音が聞こえたよ」「私もこっそり見に行ったことがありますよ。高山さんもあの双子ちゃん見たことあります?」健司はうなずいた。「あるよ」「本当ですか?」と新人は仲間を見つけたように顔を近づけてささやいた。「それで高山さん、あの子供たち、社長にすごく似ていると思いませんか?」その言葉を聞くと、健司の表情が変わり、すぐさま低い声で警告した。「絶対にそんなことを口にしないように」「え?
新人は理解できないというような顔をした。彼女は、ライブ配信に映る二人の子供はどう見ても整形された子供には見えないと思った。整形した人はどんなに精巧でも生まれ持った何かを欠いてしまうが、この二人の子供には自然な輝きが宿っているようだった。とはいえ、どれだけ似ていたとしても、社長がこんな子供を持っているなんてあり得ない。結局、社長の子供を産んだのに名乗り出てこない女性なんているはずがない。そう思うと、やはり不思議な話だと感じた。それで彼女は別のことを質問してみた。「でも、あの双子たち、もしかして整形じゃなくて、本当に社長の子供かもしれないって、一度でも疑ったことはないんですか?」その言葉を聞くと、健司は思わず鼻で笑った。「うちの社長をどんな人だと思ってるんだ?社長は知らない女性には指一本触れないマナーを持っているんだ。それだけの自制心を持つ人は、そんなことしないはずだ」何かを思い出したのか、健司はさらにこう付け加えた。「見知らぬ女性どころか、命の恩人でもある江口さんでさえ、社長は酔っても決して手を出さなかったんだ」社長の秘書を務めてきた健司は、彼の自制心を直接目にしてきた。新人は目を見開いた。「江口さんでも?それは確かにすごいですね!」彼女は奈々のことを知っている。その女性は穏やかで美しい印象だった。新人の目から見ても、奈々はまさに男性が憧れる「高嶺の花」のような存在だ。社長が彼女にすらも手を出さないとは。そう考えると、新人は業界で長く噂されている一つのゴシップを思い出し、恐る恐る質問した。「高山さん、聞いた話ですけど、社長には前妻がいるって、前妻に対しても......あの」この話を聞いて、健司は意外と少し残念そうな顔をした。「それはわからない。僕が兄の後を継いでこの仕事に就いた時には、社長はすでに離婚していたからね。でも、結婚していたのに長い間妊娠しなかったことを考えると、前妻に対しても同じだったんじゃないかな」「そうですか」新人は顎に手を当てながら、ますます興味津々な様子だった。「でも、私の従兄から聞いた話だと、社長の前妻はとても美しかったらしい」「どれほど美しかったんですか?江口さんよりもきれいだったんですか?」「僕は会ったことがないけど、従兄の話では、江口さんの百倍も美しいって」
郊外、ある和風の宅で。「ママ!ママ!」ライブ配信を終えると、二人の子供は左右から弥生の胸に甘えるように抱きつき、小さな手で彼女を抱きしめ、その身体から漂う彼女特有の香りを贅沢に吸い込んだ。しゃがんで子供たちを抱きしめる弥生の体型はほっそりしていて、ガラスのように澄んだ冷たい瞳が美しく輝き、長いまつげはまるで羽のようで、目元にはきらめきが満ちている。「配信は終わったの?」弥生が口を開いた。その声は清らかな泉のように澄んで明るい。「うん」ひなのは彼女の首と顎に頬を擦り寄せて、甘えながら小さく頷いた。陽平は妹を一瞥し、少し落ち着いた声で言った。「ママ、今日もあの人もたくさんギフトを送ってきたよ」「あの人?」弥生は一瞬驚いた。「また寂しい夜さん?」陽平は頷き、小さな口をキュッと結んで言った。「僕、あのおじさんにママの言ったことを伝えたけど、全然聞いてくれなかったんだ」その言葉を聞いた弥生は、そっと陽平の頭を撫で、微笑んだ。「まあいいわ、送らせておけばいい」子供たちがこの話題で気を揉まないように、彼女はすぐに話題を変えた。「お腹空いた?今日は何が食べたい?」食いしん坊のひなのはこの言葉を聞いた途端、料理の名前を次々に挙げ始めた。「ママ、今日はエビフライと、デザートも食べたい!」弥生は陽平の方に向き直り、「陽平ちゃんはどう?何か食べたい?」陽平は少し控えめな声で、「僕は何でもいいよ」と答えた。彼の考えは単純だった。もし自分がリクエストすれば、ママの負担が重くなるだろうと。彼も手伝いたいとは思っていたが、まだひなのと同じく小さすぎて、台所に立ち入ることは許さないのだ。弥生は陽平の目を見つめ、軽くため息をついた。「陽平ちゃん、ママが疲れるのを心配してるのね?大丈夫、今日の夜は仕事はしなくていいから、ご飯を作るだけで済むのよ」「いや、そんなことない......」陽平はひなのよりも少ししっかりしているものの、結局はまだ子供扱いでしかない。大人の目から見れば、子供の気持ちは簡単に見通せるものだ。「さあ、ママはご飯を作るから、ゆっくりしてね」「ありがとう、ママ」ひなのは気にすることなく弥生にキスをして、そのまま自分の部屋に戻ってお人形で遊び始めた。陽平は妹が去ったのを見計らい、そっと弥生に話
肉を漬け込むには時間がかかる。弥生は他の準備をしながら、ふと何かを思い出し、リビングに向かってライブ配信用のスマホを手に取った。今日のライブ配信で、彼女の子供たちはまた多くのファンを獲得し、新しく投稿した動画には「とても可愛らしい」といったようなコメントが寄せられていた。その中でも最も多くの「いいね!」がついていたコメントはこうだった:「こんなにお利口な子供ってどう育てているか、教えてくれませんか?」彼女は微笑みながら、冗談めかして返事をした。「子育ては初めてなので、あまり参考になるアドバイスはできないかもしれません」返信を終えると、今日はどれくらいの収益があったかを確認した。何も考えずに見たものの、寂しい夜という人が今日もたくさんギフトを贈ってくれたことに気づいた。これまでの分に今日の分を合わせると、かなりの額になった。弥生は、子供を育てるお金には困っていなかった。二人の子供がライブ配信をしているのは、彼らの趣味の一環であり、二人が楽しめればそれでよかった。まさかライブ配信からこんなに多くの収益が得られるとは予想外だったが、視聴者たちは親しみやすく、彼女は視聴者に対して「投げ銭しなくてもいいですよ。どうしても投げ銭したいなら、無料のギフトで十分です」と伝えていた。しかし、寂しい夜という人だけは、毎回大量のギフトを贈ってきて、その金額も大きかった。弥生はまた寂しい夜のアカウントを確認した。実は、以前から双方がフォローし合っていた。彼があまりにも多くのギフトを贈ってくれるため、フォローしないのも失礼かと思い、フォローしていたのだ。とはいえ、フォローし合っていても、この寂しい夜のアカウントは何も投稿しておらず、フォローリストにも彼女たち以外のアカウントは一つもなかった。まるで......このアカウントは双子のライブ配信を見るためだけに作られたかのようだった。そして、こんなに長い間フォローしてくれているのに、会話が交わされたことは一度もなかった。弥生は、そんな無言で配信を見守り、無言でギフトを贈り続け、何も要求しない人を今までに見たことがなかった。彼のアカウントを見つけた弥生は、相手がオンライン状態であることを確認し、メッセージを開いた。「こんにちは、双子の母です。お世話になっております。少し
相手が二人の子供の母親だと名乗るメッセージを見て、瑛介は目を細め、しばらく無言で画面を見つめた。彼は特に反応を示さず、無表情でスマホを眺めていた。その間、会議室の人々は彼の動作に気付き、徐々に目線を瑛介に向けた。プレゼンターですら、緊張して話がぎこちなくなり始めた。新人もこんな状況を初めて目にし、緊張のあまり手に握っていたペンを強く握りしめ、頭をノートにうずめたい気分だった。一方、健司は最初こそ驚いたが、すぐに平静を取り戻した。実のところ、こういったことには慣れていたのだ。以前も会議中に、二人の子供がライブ配信を始めた際、瑛介がその場でスマホを取り出して配信を確認したことがあったからだ。会議にはスマホの使用を禁止する規則があるが、ボスにそのルールが通用するはずもない。彼がどうしてもスマホを使いたいなら、誰も止められないのだ。そんなわけで、健司は軽く咳払いし、何事もなかったかのように言った。「どうぞ、続けてください」次の瞬間、瑛介は何事もなかったようにスマホをポケットにしまい、冷たく鋭い表情で両手を組み、机の前に置いた。会議の出席者たち全員は黙っていた。彼の冷ややかな視線で見つめられるくらいなら、むしろスマホを見てくれたほうがいい。少なくともその方が、ここまで緊張することはなかっただろう。それでまた、出席者たちは心で、瑛介が再びスマホをいじることを期待した。だが残念ながら、彼は二度とスマホを見なかった。会議がようやく終了し、人々が解散する頃には、集中しすぎて疲れ果て、ふらふらする者もいた。瑛介が資料を閉じ、無表情で会議室を出ると、ようやく全員が一息ついた。「やっと行ってくれた。誰かこの会議の地獄さをわかってくれ......」「本当にそう。座りっぱなしでお尻が燃えるかと思ったけど、動けなくて。社長のあの威圧感は一体何なの?」今日の会議は、宮崎グループの他、他社の社員も参加する国際会議だった。だが、瑛介が一度姿を見せると、その場にいる全員が本能的に畏怖の念を抱いた。「若くしてトップに立ち、行動も迅速かつ冷徹。彼ほどの威圧感を持つ人は他にいないだろう」話が進む中で、さらに話好きな者が噂話を始めた。「ちょっと面白い話を教えてあげるよ。今夜、うちの社長が瑛介の部屋に女性を送り込むつもりらしいんだ
そう言うと、弥生はひなのの鼻先を軽く指でつついた。それを聞いたひなのは、大きな丸い目をぱちぱちと瞬かせ、ホワイトのパジャマを着た彼女は、まるで蒸したての、ふわふわで柔らかいケーキのように見えた。彼女は弥生の言葉を真剣に考えている様子で、しばらくしてから、しっかりと頷いた。「じゃあ、決まりだね。大きくなったら、ママのお手伝いをたくさんたくさんする」「うん、それじゃあ、約束ね。さあ、遊びに行ってらっしゃい」「うん、でもママ、ちゅーして」ひなのは自分の額を指さした。弥生は思わず笑い、頭を下げて小さな額にキスをすると、ひなのは満足げにくるりと背を向け、去っていった。ちょうどその時、陽平がキッチンから出てきて、この光景を目にした。彼の目には、少し羨ましそうな色が浮かんでいた。小さな足取りで弥生のそばに歩み寄ったが、声は発さずに黙っていた。弥生はテーブルを拭きながらふと目を下にやると、陽平が自分の足元に立ち、じっと自分を見つめていることに気づいた。彼は口をきつく閉じていて、まるで小さな大人のようだった。弥生は一瞬驚いたが、すぐに彼の額にも軽くキスをした。「さあ、妹と一緒に遊んでおいで」もやもやしていた陽平も、弥生の額のキスを受けると、目に見えて嬉しそうになった。ただ、彼がどれだけ嬉しくても、口角を僅かに上げるだけで、そのまま部屋へ戻っていった。彼の背中を見送りながら、弥生はふと、ある人のことを思い出していた。陽平、この子は......あの人の小さい頃に本当によく似ている。あの人も小さい頃は、喜んでいてもそれを表に出さず、注意深く見なければ感情を読み取れないような性格だった。やはり、遺伝の影響は深いものだ。実は、弥生が自分が双子を妊娠していることを知ったのは、だいぶ後のことだった。海外に出た後、父親に付き添われて再検査を受け、そこで初めて双子だと知らされた。そして、苦労の末に陽平とひなのを出産できた。陽平は控えめで、あまり話さず、しょっちゅう眉をひそめている。その性格は父親にそっくりだった。一方、ひなのはまったく正反対で、明るく活発、さらに大食い。生まれた時から他の誰よりもよく食べ、目は輝き、泣き声もとても大きかった。妊娠中に食欲が旺盛だったのも、ひなのの影響だったのではないかと疑っているほどだ。
その言葉を聞くと、弥生の唇に浮かんでいた微笑みが少し薄れ、食器洗い用の手袋をはめた。「ほら、帰国の話をすると、いつも黙っちゃうんだから」由奈は、明らかにその態度に苛立っている様子だった。「もう何年も経ったんだし、たとえ当時彼女と約束があったとしても、今ならそれを破ってもいいんじゃない?」弥生は依然として口を閉ざしていた。しかし、由奈はさらに話し続けた。「この業界、今は国外じゃあまり発展していないけど、国内では成長しているの。しかも、あなたが誘われているのは国内でもトップクラスの企業なのよ。そんな素晴らしいポジション、あなたが特別に優れているからこそ、空けて待ってもらえてているけど、他の人に取られたっておかしくないんだからね。彼らは、あなたを逃したくないって、電話で私に説得してほしいって頼んできたのよ」ここまで聞いて、弥生はつい吹き出した。「それで?その会社は何か良い条件でも出したの?こんなに積極的に私を説得するなんて」「ちょっと、私を疑わないでよ」由奈は鼻を鳴らし、「私がそんな人に見える?私は単に、給料が高いし、あなたのキャリアの将来にも良いと思って助言してるの!絶対に、彼らがくれると言っている報酬のためじゃないんだからね......まあ、その報酬がかなり良いのは事実だけど」「どんな報酬がもらえるの?」「......ちょっとした小さな報酬よ。もし採用されて一年働いたら、年俸に応じたお祝い金を私にくれるって」弥生は笑った。「さすが益田グループ、気前がいいわね」「そうなのよ、益田ってすごいの!それにね、益田グループの社長は若くてイケメンで、しかも独身らしいのよ。今回の誘いも、彼が特別にあなたに声をかけてきたんだから。前回も面会を希望していたのに、あなたは会うことすら拒否してたじゃない」「私は仕事が忙しいし、家に帰ったら子供の世話をしなきゃいけないのよ。会う時間なんてないわ」「確かに」子供の話を持ち出されると、由奈も少しだけ気持ちが和らいだ。「子供はどこにいるの?」「リビングにいるわ」「もう、いくら自分で世話をしたいからって、何もかも一人でやる必要はないでしょ?せめて料理くらいは誰かに任せればいいのに」「料理はやっぱり自分でやりたいのよ。家の掃除は、家事代行の人に頼んでるけどね」「でも、料理だって
「本当は、決まってからあなたに伝えるつもりだったのよ。まだ準備段階で、実現できるかどうかもわからないけど」「あああ!」と、由奈は電話の向こうで叫び声を上げた。その叫びがキッチン中に響き渡ったとき、弥生はスピーカーモードにしておいてよかったと思った。「会社を開くなんて、どうしてもっと早く教えてくれなかったの?それを聞いていたら、益田グループに行けなんて言わなかったわ。高給の職業だとか、特別なポジションだとか、そんなのより、自分で会社を開く方がよっぽど素晴らしいじゃない」「まだ思案している段階だから、うまくいかなかったらがっかりさせてしまうでしょ?」「がっかりなんてしないわよ。小さい頃から、あなたがやりたいことをやって失敗したことなんて一度もないじゃない。あなたなら絶対にできるわ!」由奈がひたすら応援してくれる声を聞いて、弥生の唇には自然と笑みが浮かんだ。「ありがとう。でも私だって何度も失敗しているのよ」「さっさと努力してよ!成功したら、私も入社するから」「いいわよ、ポジションを空けておくわ」「そうでなくっちゃ。誰にも譲っちゃダメよ」その後、二人はまたあれこれと取り留めのない話をして、弥生が皿を洗い終える頃に、由奈は電話を切った。キッチンを片付け終えた弥生は、昼寝の準備をした。昼寝前に子供たちに軽く言い聞かせてから、寝室に入った。眠る前に弥生は少しTikTokのアカウントをチェックしてみたが、寂しい夜からの返信はなかった。あまり気にせず、すぐにスマホを置いて休むことにした。弥生が昼寝できるのはわずか二十分で、彼女にとってその一分一分がとても貴重だった。ベッドに横になると、彼女はすぐに眠りについた。実は、最初の二年間、弥生は睡眠障害があった。長期にわたり、薬の力を借りないと眠れなかったのだ。だが今は、横になれば瞬く間に眠りにつくことができる。-スイートルーム内ウェイターが食事を運んできたとき、ソファに座る上品で威厳ある雰囲気の男性を見て、つい何度か目を留めていた。健司はウェイターに料理をテーブルに置くよう指示した後、彼女を退出させ、瑛介に声をかけた。「昼食が届きました」「うん」瑛介は低い声で一言返したが、依然としてソファに座ったままで動かなかった。健司は彼が仕事に集
二時間後、飛行機は南市に到着した。事前に心の準備をしていたとはいえ、飛行機を降り、見慣れた空港の光景が目に入ると、弥生の指先は無意識に微かに震えた。五年前、彼女はここから去った。それから五年が経ったが、空港の様子はほとんど変わっていない。最後尾を歩く弥生の心は、ずっしりと重く感じられた。彼女が物思いにふけていると、前を歩いていた瑛介が彼女の遅れに気づき、足を止めて振り返った。だが弥生は気づかず、そのまま真正面からぶつかった。ドンッ。柔らかな額が、しっかりとした胸に衝突した。弥生は足を止め、ゆっくりと顔を上げると、瑛介の黒い瞳が目に飛び込んできた。彼は冷たい声で言った。「何をしている?」弥生は一瞬動きを止め、額を押さえながら眉をひそめた。「ちょっと考え事をしてたの」「何を?」弥生は額を押さえたまま、目を少しぼんやりとさせた。「おばあちゃんは、私を責めるかな?彼女の墓前に行ったら、歓迎してくれるかな?」瑛介はわずかに表情を変えた。数秒の沈黙の後、彼は低く静かな声で答えた。「前に言ったはずだ。おばあちゃんはずっと君に会いたがってた」会いたかったとしても?どれだけ会いたかったとしても、自分は孝行を果たすことができなかった。最期の時ですら、そばにいることができなかった。もし自分が逆の立場だったら、きっと私を恨むだろう。だが、おばあちゃんはとても優しい人だった。そんなことは思わないかもしれない......弥生は自分に言い聞かせるように、そっと息を吐いた。「行こう」空港を出る頃には、すでに夕方六時近くになっていた。空は灰色の雲に覆われ、今にも雨が降りそうだった。ホテルに着いたときには、すでに空気が湿り始めていた。弥生がフロントでチェックイン手続きをしていると、瑛介も一緒についてきた。「家には帰らないの?」彼女が尋ねると、瑛介は何気ない口調で答えた。「そこからお墓まで近い。朝起きてすぐ行けるから」それなら納得できる理由だったので、弥生もそれ以上何も言わなかった。二人はそれぞれ別々に部屋を取った。健司は瑛介と同室で、弥生は一人だった。部屋はちょうど向かい合わせになった。部屋に入ると、弥生は靴を脱ぎ、ふわふわのベッドに倒れ込んだ。外では
瑛介は解決策を弥生に提案した。彼の提案に気づくと、弥生は仕事の集中からふっと我に返り、瑛介を見た。「どうした?間違ってたか?」弥生は眉を寄せた。「休まないの?」瑛介はあくまで冷静に答えた。「うん、眠くないんだ」弥生はそれ以上何も言わず、再び仕事に戻ったが、彼の指摘した解決策を改めて考えてみると、それが最も適切な方法だったことに気づいた。彼女は軽く息をつき、言った。「邪魔しないで」それを聞いた瑛介は、目を伏せて鼻で笑った。「善意を踏みにじるとはな」「君の善意なんていらないわ」瑛介はその言葉に腹を立てたが、彼女が結局彼の提案を採用したのを見て、気が済んだ。そして心の中でひそかに冷笑した。ちょうどその時、客室乗務員が機内食を配りに来た。弥生は仕事に没頭していて、食事を取る時間も惜しんでいた。そんな中、瑛介の低い声がふと聞こえた。「赤ワインをもらおう」弥生はパソコンを使いながら、特に気に留めていなかった。だが、その言葉を聞いた途端、彼女はぴたりと手を止め、勢いよく顔を上げた。じっと瑛介を見つめ、冷静に言った。「まだ完治してないのに、お酒を飲むつもり?」瑛介は特に表情を変えずに返した。「ほぼ治った。少し飲むだけだ」その言葉に、弥生は呆れたように沈黙し、数秒後、客室乗務員に向かって言った。「ごめんないね。退院したばかりなので、お酒は控えないといけないんです。代わりに白湯をお願いできますか」客室乗務員は瑛介を見て、それから弥生を見て、一瞬戸惑ったが、最終的に頷いた。「はい、承知しました」「弥生、そこまで僕を制限する権利があるのか?」瑛介が低い声で抗議した。しかし弥生は無表情のまま、淡々と答えた。「私は今、君の隣の席に座っているの。もし君がお酒を飲んで体調を崩したら、私の仕事に影響するでしょう?飛行機を降りたら、好きなだけ飲めばいいわ」しばらくして、客室乗務員が温かい白湯を持ってきた。飛行機の乾燥した空気の中、湯気がわずかに立ち上った。瑛介は目の前の白湯をじっと見つめた。長時間のフライトで白湯を出されたのは彼の人生でこれが初めてだった。だが、不思議なことに、不快には感じなかった。ただ、問題は......自分からこの白湯を手に取るのが
弥生は瑛介に手を握られた瞬間、彼の手の冷たさにびっくりした。まるで氷を握っていたかのような冷たさ。彼女の温かい手首とあまりにも温度差があり、思わず小さく身震いしてしまった。そのまま無意識に、弥生は瑛介のやや青白い顔をじっと見つめた。二人の手が触れ合ったことで、当然ながら瑛介も彼女の反応に気づいた。彼女が座った途端、彼はすぐに手を引っ込めた。乗務員が去った後、弥生は何事もなかったかのように言った。「さっきは通さないって言ったくせに?」瑛介は不機嫌そうな表情を浮かべたが、黙ったままだった。だが、心の中では健司の作戦が案外悪くなかったと思っていた。彼がわざと拒絶する態度をとることで、弥生はかえって「彼が病気を隠しているのでは?」と疑い、警戒するどころか、むしろ彼に近づく可能性が高くなるという作戦だ。結果として、彼の狙い通りになった。案の定、少しの沈黙の後、弥生が口を開いた。「退院手続き、ちゃんと済ませたの?」「ちゃんとしたぞ。他に選択肢があったか?」彼の口調は棘があったが、弥生も今回は腹を立てず、落ち着いた声で返した。「もし完全に治ってないなら、再入院も悪くないんじゃない?無理しないで」その言葉に、瑛介は彼女をじっと見つめた。「俺がどうしようと、君が気にすることか?」弥生は微笑んだ。「気にするわよ。だって君は私たちの会社の投資家だもの」瑛介の目が一瞬で暗くなり、唇の血色もさらに悪くなった。弥生は彼の手の冷たさを思い出し、すれ違った客室乗務員に声をかけた。「すみません、ブランケットをいただけますか?」乗務員はすぐにブランケットを持ってきてくれた。弥生はそれを受け取ると、自分には使わず、瑛介の上にふわりとかけた。彼は困惑した顔で彼女を見た。「寒いんでしょ?使って」瑛介は即座に反論した。「いや、寒くはないよ」「ちゃんと使って」「必要ない。取ってくれ」弥生は眉を上げた。「取らないわ」そう言い終えると、彼女はそのまま瑛介に背を向け、会話を打ち切った。瑛介はむっとした顔で座ったままだったが、彼女の手がブランケットを引くことはなく、彼もそれを払いのけることはしなかった。彼はそこまで厚着をしていなかったため、ブランケットがあると少し温かく感じた。
「どうした?ファーストクラスに来たら、僕が何かするとでも思ったのか?」弥生は冷静にチケットをしまいながら答えた。「ただ節約したいだけよ。今、会社を始めたばかりなのを知ってるでしょ?」その言葉を聞いて、瑛介の眉がさらに深く寄せられた。「僕が投資しただろう?」「確かに投資は受けたけど、まだ軌道には乗っていないから」彼女はしっかりと言い訳を用意していたらしい。しばらくの沈黙の後、瑛介は鼻で笑った。「そうか」それ以上何も言わず、彼は目を閉じた。顔色は相変わらず悪く、唇も蒼白だった。もし彼が意地を張らなければ、今日すぐに南市へ向かう必要はなかった。まだ完全に回復していないのに、こんな無理をするのは彼自身の選択だ。まあ、これで少しは自分の限界を思い知るだろう。ファーストクラスの乗客には優先搭乗の権利がある。しかし弥生にはそれがないため、一般の列に並ぶしかなかった。こうして二人は別々に搭乗することになった。瑛介の後ろについていた健司は、彼の殺気立った雰囲気に圧倒されながらも、提案した。「社長、ご安心ください。機内で私が霧島さんと席を交換します」だが、瑛介の機嫌は依然として最悪だった。健司はさらに説得を続けた。「社長、霧島さんがエコノミー席を取ったのはむしろ好都合ですよ。もし彼女がファーストクラスを買っていたとしても、社長の隣とは限りません。でも、私は違います。私が彼女と席を交換すれば、彼女は社長の隣になります。悪くないと思いませんか?」その言葉を聞いて、瑛介はしばし考え込んだ。そして最終的に納得した。瑛介はじっと健司を見つめた。健司は、彼が何か文句を言うかと思い、身構えたが、次に聞こえたのは軽い咳払いだった。「悪くない。でも、彼女をどう説得するかが問題だ」「社長、そこは私に任せてください」健司の保証があったとはいえ、瑛介は完全に安心はできなかった。とはいえ、少なくとも飛行機に乗る前ほどのイライラは消えていた。彼の体調はまだ万全ではなかった。退院できたとはいえ、長時間の移動は負担だった。感情が高ぶると胃の痛みも悪化してしまうはずだ。午後、弥生のメッセージを受け取った時、瑛介はちょうど薬を飲み終えたばかりだった。その直後に出発したため、車の中では背中に冷や汗
もし瑛介の顔色がそれほど悪くなく、彼女への態度もそれほど拒絶的でなかったなら、弥生は疑うこともなかっただろう。だが今の瑛介はどこか不自然だった。それに、健司も同じだった。そう考えると、弥生は唇を引き結び、静かに言った。「私がどこに座るか、君に決められる筋合いはないわ。忘れたの?これは取引なの。私は後ろに座るから」そう言い終えると、瑛介の指示を全く無視して、弥生は車の後部座席に乗り込んだ。車内は静寂に包まれた。彼女が座った後、健司は瑛介の顔色をこっそり伺い、少し眉を上げながら小声で言った。「社長......」瑛介は何も言わなかったが、顔色は明らかに悪かった。弥生は彼より先に口を開いた。「お願いします。出発しましょう」「......はい」車が動き出した後、弥生は隣の瑛介の様子を窺った。だが、彼は明らかに彼女を避けるように体を窓側に向け、後頭部だけを見せていた。これで完全に、彼の表情を読むことはできなくなった。もともと彼の顔色や些細な動きから、彼の体調が悪化していないか確認しようとしていたのに、これでは何も分からない。だが、もう数日も療養していたのだから大丈夫だろうと弥生は思った。空港に到着した時、弥生の携帯に弘次からの電話が入った。「南市に行くのか?」弘次は冷静に話しているようだったが、その呼吸は微かに乱れていた。まるで走ってきたばかりのように、息が整っていない。弥生はそれに気づいていたが、表情を変えずに淡々と答えた。「ええ、ちょっと行ってくるわ。明日には帰るから」横でその電話を聞いていた瑛介は、眉をひそめた。携帯の向こう側で、しばらく沈黙が続いた後、弘次が再び口を開いた。「彼と一緒に行くのか?」「ええ」「行く理由を聞いてもいいか?」弥生は後ろを振り返ることなく、落ち着いた声で答えた。「南市に行かないといけない大事な用があるの」それ以上、詳細は語らなかった。それを聞いた弘次は、彼女の意図を悟ったのか、それ以上問い詰めることはしなかった。「......分かった。気をつけて。帰ってきたら迎えに行くよ」彼女は即座に断った。「大丈夫よ。戻ったらそのまま会社に行くつもりだから、迎えは必要ないわ」「なんでいつもそう拒むんだ?」弘次の呼吸は少
「そうなの?」着替えにそんなに慌てる必要がある?弥生は眉間に皺を寄せた。もしかして、また吐血したのでは?でも、それはおかしい。ここ数日で明らかに体調は良くなっていたはずだ。確かに彼の入院期間は長かったし、今日が退院日ではないのも事実だが、彼女が退院を促したわけではない。瑛介が自分で意地を張って退院すると言い出したのだ。だから、わざわざ引き止める気も弥生にはなかった。だが、もし本当にまた吐血していたら......弥生は少し後悔した。こんなことなら、もう少し様子を見てから話すべきだったかもしれない。今朝の言葉が彼を刺激したのかもしれない。彼女は躊躇わず、寝室へ向かおうとした。しかし、後ろから健司が慌てて止めようとしていた。弥生は眉をひそめ、ドアノブに手をかけようとした。その瞬間、寝室のドアがすっと開いた。着替えを終えた瑛介が、ちょうど彼女の前に立ちはだかった。弥生は彼をじっと見つめた。瑛介はそこに立ち、冷たい表情のまま、鋭い目で彼女を見下ろしていた。「何をしている?」「あの......体調は大丈夫なの?」弥生は彼の顔を細かく観察し、何か異常がないか探るような視線を向けた。彼女の視線が自分の体を行き来するのを感じ、瑛介は健司と一瞬目を合わせ、それから無表情で部屋を出ようとした。「何もない」数歩進んでから、彼は振り返った。「おばあちゃんに会いに行くんじゃないのか?」弥生は唇を引き結んだ。「本当に大丈夫?もし体がしんどいなら、あと二日くらい待ってもいいわよ」「必要ない」瑛介は彼女の提案を即座に拒否した。意地を張っているのかもしれないが、弥生にはそれを深く探る余裕はなかった。瑛介はすでに部屋を出て行ったのだ。健司は気まずそうに促した。「霧島さん、行きましょう」そう言うと、彼は先に荷物を持って部屋を出た。弥生も仕方なく、彼の後に続いた。車に乗る際、彼女は最初、助手席に座ろうとした。だが、ふと以前の出来事を思い出した。東区の競馬場で、弥生が助手席に座ったせいで瑛介が駄々をこね、出発できなかったことがあった。状況が状況だけに、今日は余計なことをせず、後部座席に座ろうとした。しかし、ちょうど腰をかがめた時だった。「前に座れ」瑛介の冷たい声が
健司はその場に立ち尽くしたまま、しばらくしてから小声で尋ねた。「社長、本当に退院手続きをするんですか?まだお体のほうは完全に回復していませんよ」その言葉を聞いた途端、瑛介の顔色が一気に険しくなった。「弥生がこんな状態の僕に退院手続きをしろって言ったんだぞ」健司は何度か瞬きをし、それから言った。「いやいや、それは社長ご自身が言ったことじゃないですか。霧島さんはそんなこと、一言も言ってませんよ」「それに、今日もし社長が『どうして僕に食事を持ってくるんだ?』って聞かなかったら、霧島さんは今日、本当の理由を話すつもりはなかったでしょう」話を聞けば聞くほど、瑛介の顔色はどんどん暗くなっていく。「じゃあ、明日は?あさっては?」「社長、僕から言わせてもらうとですね、霧島さんにずっと会いたかったなら、意地になっても、わざわざ自分から話すべきじゃなかったと思いますよ。人って、時には物事をはっきりさせずに曖昧にしておく方がいい時もあるんです」「そもそも、社長が追いかけているのは霧島さんですよね。そんなに何でも明確にしようとしてたら、彼女を追いかけ続けることなんてできないでしょう?」ここ数日で、健司はすっかり瑛介と弥生の微妙な関係に慣れてしまい、こういう話もできるようになっていた。なぜなら、瑛介は彼と弥生の関係について、有益な助言であれば怒らないと分かっていたからだ。案の定、瑛介はしばらく沈黙したまま考え込んだ。健司は、彼が話を聞き入れたと確信し、内心ちょっとした達成感を抱いた。もしかすると、女性との関係に関しては、自分の方が社長より経験豊富なのかもしれない。午後、弥生は約束通り、瑛介が滞在したホテルの下に到着した。到着したものの、彼女は中には入らず、ホテルのエントランスで客用の長椅子に腰掛けて待つことにした。明日飛行機で戻るつもりだったため、荷物はほとんど持っていなかった。二人の子どものことは、一時的に千恵に頼んだ。最近はあまり連絡を取っていなかったが、弥生が助けを求めると、千恵はすぐに引き受け、彼女に自分の用事に専念するよう言ってくれた。それにより、以前のわだかまりも多少解けたように思えた。弥生はスマホを取り出し、時間を確認した。約束の時間より少し早く着いていた。彼女はさらに二分ほど待った
瑛介は眉がをひそめた。「どういうこと?」話がここまで進んだ以上、弥生は隠すつもりもなかった。何日も続いていたことだからだ。彼女は瑛介の前に歩み寄り、静かに言った。「この数日間で、体調はだいぶ良くなったんじゃない?」瑛介は唇を結び、沈黙したまま、彼女が次に何を言い出すかを待っていた。しばらくして、弥生はようやく口を開いた。「おばあちゃんに会いたいの」その言葉を聞いて、瑛介の目が細められた。「それで?」「だから、この数日間君に食事を運んで、手助けをしたのは、おばあちゃんに会わせてほしいから」瑛介は彼女をしばらくじっと見つめたあと、笑い出した。なるほど、確かにあの日、弥生が泣き、洗面所から出てきた後、彼女はまるで別人のように変わっていた。わざわざ見舞いに来て、さらに食事まで作って持って来てくれるなんて。この数日間の彼女の行動に、瑛介は彼女の性格が少し変わったのかと思っていたが、最初から目的があったということか。何かを思い出したように、瑛介は尋ねた。「もしおばあちゃんのことがなかったら、君はこの数日間、食事なんて作らなかっただろう?」弥生は冷静なまま彼を見つめた。「もう食事もできるようになって、体もだいぶ良くなったんだから、そこまで追及する必要はないでしょ」「ふっ」瑛介は冷笑を浮かべた。「君にとって、僕は一体どんな存在なんだ?おばあちゃんに会いたいなら、頼めば良いだろう?僕が断ると思ったのか?」弥生は目を伏せた。「君が断らないという保証がどこにあるの?」当時おばあちゃんが亡くなった時、そばにいることができなかった。でも、何年も経った今なら、せめて墓前に行って、一目見ることくらいは許されるはずだと弥生は考えていた。瑛介は少し苛立っていた。彼女がこの数日間してきたことが、すべて取引のためだったと知ると、胸が締め付けられるように感じた。無駄に期待していた自分が馬鹿みたいだ。そう思うと、瑛介は落胆し、目を閉じた。なるほど、だから毎日やって来ても、一言も多く話してくれなかったわけだ。少し考えたあと、彼は決断した。「退院手続きをしてくれ。午後に連れて行くよ」その言葉を聞いても、弥生はその場から動かなかった。動かない様子を見て、瑛介は目を開き、深く落ち着
この鋭い言葉が、一日中瑛介の心を冷たくさせた。完全に暗くなる頃、ようやく弥生が姿を現した。病室のベッドに座っていた瑛介は、すごく不機嫌だった。弥生が自分の前に座るのを見て、瑛介は低い声で問いかけた。「なんでこんなに遅かったんだ?」それを聞いても、弥生は返事をせず、ただ冷ややかに瑛介を一瞥した後、淡々と言った。「道が混まないとでも思っているの?食事を作るのにも時間がかかるでしょ?」彼女の言葉を聞いて、瑛介は何も言えなくなった。しばらくして、弥生が食べ物を彼に渡すと、瑛介は沈んだ声で言った。「本当は、君が来てくれるだけでいいんだ。食事まで作らなくても......」「私が作りたかったわけではないわ」弥生の冷ややかな言葉に、瑛介の表情がわずかに変わった。「じゃあ、なぜ作った?」しかし弥生はその問いには答えず、ただ立ち上がって片付け始めた。背を向けたまま、まるで背中に目があるかのように彼に言った。「さっさと食べなさい」その言葉を聞き、瑛介は黙って食事を済ませた。片付けを終えた弥生は無表情のまま告げた。「明日また来るわ」そして、瑛介が何かを言う前に、早々と病室を後にした。残された瑛介の顔からは、期待が薄れていくのが見て取れた。傍にいた健司も、弥生がこんなにも淡々と、義務のようにやって来て、また早々と去っていくことに驚いていた。「彼女はなぜこんなことをするんだ?僕の病気のせいか?」瑛介が問いかけても、健司は何も答えられなかった。彼自身も、弥生の真意を掴めずにいたからだ。その後の数日間も、弥生は変わらず食事を運んできた。初めは流動食しか食べられなかった瑛介も、徐々に半固形の食事を口にできるようになった。そのたびに、弥生が作る料理も少しずつ変化していった。彼女が料理に気を配っていることは明らかだった。だが、その一方で、病室での態度は冷淡そのもの。まるで瑛介をただの患者として扱い、自分は決められた業務をこなす看護師であるかのようだった。最初はかすかに期待を抱いていた瑛介も、やがてその希望を捨てた。そして三日が過ぎ、四日目の朝、いつものように弥生が食事を持って来たが、瑛介は手をつけずにじっと座っていた。いつもなら時間が過ぎると弥生は「早く食べて」と促すが、今日は彼の方から先に口を開いた